文章題訓読み問題の形式での出題です。
(この記事はランダムではありません。)
問題は250問近くあり、一つの文章内に複数の出題個所があるものもあります。
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後鎖縶(さしつ)されて逍遥城に内れらるるや、一日帝の之を熟視するにあう。(幸田露伴「運命」より) <答え>い
それには、宿命の糸を丹念にほぐし手繰り寄せて、終回の悲劇までを余さず記してゆかねばならぬのであるが、まず何より、順序として里虹の前身に触れ、あの驚くべき伝奇的な絡がりを明らかにしておきたいと思う。(小栗虫太郎「人魚謎お岩殺し」より) <答え>つな
もっと既にこの時世界の不況は大英の財界にも押し寄せて来て、彼の顧問会社の脈搏不整はこの偉れた財政家に騎士時代の革財布を丹念に繕うような閑道楽を許さなくなってもいた。(岡本かの子「バットクラス」より) <答え>すぐ
実(げ)に彼は火の如何に焚え、如何に燬くや、と厳そかに監るが如く眥を裂きて、その立てる処を一歩も移さず、風と烟と焰との相雑(まじ)わり、相争い、相勢いて、力の限りを互いに奮うをば、妙(いみじ)くも為したりとや、漫ろ笑みを洩らせる顔色はこの世に匹うべきものありとも知らず。(尾崎紅葉「金色夜叉」より) <答え>たぐ
昔阿修羅が帝釈天と戦って敗れたときは、八万四千の眷属を領して藕糸孔中に入って蔵れたとある。(夏目漱石「一夜」より) <答え>かく
さしもはしゃいで居た畑の土がしっとりと湿うて、玉蜀黍の下葉やコスモスの下葉や、刎ね上げた土まみれになって、身重げに低れて居る。(徳冨健次郎「みみずのたはこと」より) <答え>うるお、た
新聞紙の伝うる所に由れば、姑という人は明治以前の思想をそのままに墨守して移ることを知らず、現代の教育を受けた若い嫁の心理に大した同感もなく、かえって断えず反感を持って対し、二言目には家風を楯に取り、自分の旧式な思想を無上の権威として嫁の個性を蹂躪し圧倒することを何とも思わず、聞き苦しい干渉と邪推と、悪罵と、あてこすりとを以て嫁を苛めて悔いぬような、世にいう姑根性をかなり多く備えた婦人であるらしい。(与謝野晶子「姑と嫁について」より) <答え>いじ
佐藤子文は伊勢国五十鈴川の上に住んでいた。(森鴎外「伊沢蘭軒」より) <答え>ほとり
春風秋雨半世紀以上を閲た今日に於いてこれを閲して見ると、その中でなんぼも実績が挙がっていないのに一驚を喫する。(牧野富太郎「牧野富太郎自叙伝 -第二部 混混録-」より) <答え>へ
この風土記の上られた天平五年には、その信仰伝承が衰微していたのであろう。(折口信夫「水の女」より) <答え>たてまつ
島崎氏はこの外に何者をも要めなかった。(蒲原有明「新しき声」より) <答え>もと
ハア覚(おべ)えていやすとも、苛い人だと思ったから忘れねいのさ、男の方は廿五六でもあったかね。(三遊亭圓朝「名人長二」より) <答え>むご
銀色の背、樺と白との腹、その鮮しい魚が茶色に焼け焦げて、ところまんだら味噌の能く付かないのも有った。(島崎藤村「破戒」より) <答え>あたら
コックスが肥後か肥前の王五十万石を領すといえるは忠広なる事疑いなくこの人勇武なるのみならず外人に接する礼に閑い世辞目なき才物たりしと見ゆ。(南方熊楠「十二支考 -虎に関する史話と伝説民俗-」より) <答え>なら
或る夕方、急に「どうしても往かなければならない所があるから」と仰って出て往かれた御様子がどうも不審だったので、人を付けさせて見たら、果たして坊の小路のこれこれの所へおはいりになったと云う事だった。(堀辰雄「かげろうの日記」より) <答え>まち
外の洋というのは、亜米利加までつづく太平洋のことであります。(中里介山「大菩薩峠 -安房の国の巻-」より) <答え>うみ
然れども井伊大老已に彼を死地に処かんとす、それ将何の益有らん。(徳富蘇峰「吉田松陰」より) <答え>お
「何ですか、その西洋料理へ行って午飯を食うのについて趣向があるというのですか」と主人は茶を続ぎ足して客の前へ押しやる。(夏目漱石「吾輩は猫である」より) <答え>つ
梅が子を結ぶ毎に、少年等はこれを摘み取り、相擲って戯れとした。(森鴎外「伊沢蘭軒」より) <答え>み
夫人がいってしまうと小翠はもういたずらをはじめて、元豊の顔を脂と粉(おしろい)でくまどって鬼のようにした。(蒲松齢/田中貢太郎訳「小翠」より) <答え>べに
又王が孝孺を送るの詩に、士を閲す孔だ多し、我は希直を敬すの句あり。(幸田露伴「運命」より) <答え>はなは
彼は陰かに宮と語らんことを望めるなり、宮はなお言わずして可羞(はずか)しげに打ち笑めり。(尾崎紅葉「金色夜叉」より) <答え>ひそ
カタリ、と引くと、直に囲いの庭で、敷き松葉を払ったあとらしい、蕗の葉が芽んだように、飛び石が五六枚。(泉鏡花「妖術」より) <答え>めぐ
然れども之を古制に比すれば封境過大にして、諸王又率ね驕逸不法なり。(幸田露伴「運命」より) <答え>おおむ
雪は絶え間なく渦を巻いて地の上と水の上とに落ちる。その落ちるのが余り密かなので、遠い所の街灯の火が蔽われて見えない。(Frederic Boutet/森鴎外訳「橋の下」より) <答え>こま
これを聞きける貫一は鉄縄をもて縛められたるように、身の重きに堪えず、心の転た苦しきを感じたり。(尾崎紅葉「金色夜叉」より) <答え>いまし
箸持つ手さえ躊躇(たゆた)いがちにて舌が美味うは受けとらぬに、平常(つね)は六碗七碗を快う喫いしもわずかに一碗二碗で終え、茶ばかりかえって多く飲むも、心に不悦(まずさ)のある人の免れがたき慣例(ならい)なり。(幸田露伴「五重塔」より) <答え>く
親が承知で――と言ったところで、丈夫で悧巧な倅を、一生奉公に出し度(た)い親はないでしょうが、兎も角、十三や十五になったばかりの倅を、その気にさせたのは虐いことで、――でも宗吉はよく勤めたと言いますよ。(野村胡堂「銭形平次捕物控 -正月の香り-」より) <答え>むご
然し、本当に惚れんのは、どうだろう、女が非いのか、それとも男の方が非いのか。(尾崎紅葉「金色夜叉」より) <答え>わる
吾人はすでに若干の思想を有す、しかれども今日まではただこれを言論に発するを得るのみ、これを実行し得ることは今日以後にあり、今日以後はこれを実行し得るの途を有す、しかれどもはたしてこれを仕遂ぐるや否やは逆め覩るべからず、…(陸羯南「近時政論考」より) <答え>あらかじ
…身を立つる世のためしぞとその下の句を吟ずるにも莞爾(にこにこ)しつつ二たびし、壇に向こうて礼拝恭み、拍手の音清く響かし一切成就の祓いを終えるここの光景さまには引きかえて、源太が家の物淋しさ。(幸田露伴「五重塔」より) <答え>つつし
わけて、お燕が、ふと「父」ということばでも洩らそうものなら、かの女の、呪咀の埋み火は、すぐ炎になって、全身を焦いた。(吉川英治「大岡越前」より) <答え>や
万種の動作、ただ一心に会まる。(徳富蘇峰「吉田松陰」より) <答え>あつ
義雄の追求の仕方があまり苛しかったんだろうッて、俺は台湾の方に居てお秋と二人でその噂をしていたよ。(島崎藤村「新生」より) <答え>きび
…そして大器氏にも手伝って一ツの蓑を着けさせ、竹の皮笠を被せ、その紐を緊しく結んでくれた。(幸田露伴「観画談」より) <答え>きび
一日太孫をして詞句の属対をなさしめしに、大いに旨に称わず、復び以て燕王棣に命ぜられけるに、燕王の語は乃ち佳なりけり。(幸田露伴「運命」より) <答え>かな、ふたた
其の姉は即ち燕王の妃にして、其の弟増寿は京師に在りて常に燕の為に国情を輸せるも、輝祖独り毅然として正しきに拠る。(幸田露伴「運命」より) <答え>いた
而していわんやまたザラに世上に跋扈する道で聞き塗に説く輩においてをやだ。(南方熊楠「十二支考 -鶏に関する伝説-」より) <答え>みち
信婦人の車に乗じ、径ちに門に至りて見ゆることを求め、ようやく召し入れらる。(幸田露伴「運命」より) <答え>ただ
葛かつて酒を被り、たまたまその肆に坐し、手に信せて繙閲す。(南方熊楠「失うた帳面を記憶力で書き復した人」より) <答え>まか
世の常ならば生面の客にさえ交わりを結びて、旅の憂さを慰めあうが航海の習いなるに、微恙にことよせて房の裡にのみ籠もりて、同行の人々にも物言うことの少なきは、人知らぬ恨みに頭のみ悩ましたればなり。(森鴎外「舞姫」より) <答え>へや
…と言って指して見せたのが、雨に沢を帯びた、猪口茸(いぐち)に似た、ぶくりとした茸であった。(泉鏡花「雨ばけ」より) <答え>つや
けだし十余年なり、時刻爽わずと、余窃かに記す。(南方熊楠「十二支考 -鶏に関する伝説-」より) <答え>たが
憎き女の文なんど見るも穢らわしと、前には皆焚き棄てたりし貫一の、如何にしてこたびばかりは終に打ち拆きけん、彼はその手にせし始めに、又は読み去りし後に、自らその故を譲めて、自ら知らざるを愧ずるなりき。(尾崎紅葉「金色夜叉」より) <答え>せ
今日の日も陽は炎ゆる、地は睡る(中原中也「山羊の歌」より) <答え>も
われ呂湖の蜃に厄しめらる、君我を助けなば厚く報ずべし。(南方熊楠「十二支考 -田原藤太竜宮入りの話-」より) <答え>くる
妻の働いているうちは、どうか恁(こう)か持ち堪えていた家も、古くから積もり積もりして来ている負債の形に取られて、彼は細やかな小屋のなかに、辛うじて生きていた。(徳田秋声「あらくれ」より) <答え>ささ
汝是に依りてさとるをえん、いかなる愛にても愛そのものは美むべきものなりと断ずる人々いかに真に遠ざかるやを。(Alighieri Dante/山川丙三郎訳「神曲 -浄火-」より) <答え>ほ
私たちのゆくては限りなく洋く、私たちの未来は涯もなく巨きい。(安西冬衛「大大阪のれいめい」より) <答え>ひろ
呉の孫権、或る時、曹再興をして屛風に画かしむ、画伯筆を取って誤って落として素きに点打つ。(泉鏡花「聞きたるまゝ」より) <答え>しろ
万葉集は固より、以後益隆んになって、短歌に於ける理想的な形さえ考えられる様になった。(折口信夫「歌の円寂する時」より) <答え>さか
烏は績を謳歌してカアカアと鳴く、ただ願わくば田吾作と八公が身の不運を嘆き命惜しの怨みを吞んで浮世を去った事を永に烏には知らさないでいたい。(和辻哲郎「霊的本能主義」より) <答え>いさお
毛利家が所謂俗党の言を用いて罪を謝し、此の役は中途にして寝んだ。(森鴎外「伊沢蘭軒」より) <答え>や
貫一は鰐淵の裏二階なる八畳の一間を与えられて、名は雇人なれども客分に遇(あつか)われ、手代となり、顧問となりて、主の重宝大方ならざれば、四年の久しきに弥れども主は彼を出いだすことを喜ばず、…(尾崎紅葉「金色夜叉」より) <答え>わた
紅蓮白蓮の香(におい)ゆかしく衣袂(たもと)に裾に薫り来て、浮き葉に露の玉動(ゆら)ぎ立ち葉に風のそよ吹ける面白の夏の眺望(ながめ)は、赤蜻蛉菱藻を嬲り初霜向こうが岡の樹梢(こずえ)を染めてより全然(さらり)となくなったれど、赭色(たいしゃ)になりて荷の茎ばかり情のう立てる間に、世を忍びげの白鷺がそろりと歩む姿もおかしく、…(幸田露伴「五重塔」より) <答え>はす
しかるに明治年間ある知事の時代に、たぶん机の上の学問しか知らないいわゆる技師の建言によってであろう、この礁が汽船の出入りの邪魔になると言ってダイナマイトで破砕されてしまった。(寺田寅彦「藤棚の陰から」より) <答え>かくれいわ
しかるにギリシア、ローマには一方に蛇を兇物として蛇髪女鬼ゴルゴー、九頭大蛇ヒドラ等、諸怪を産出せる他の一方に、竜種ドラゴンテスを眼利く地下に住む守護神として崇敬せり。(南方熊楠「十二支考 -田原藤太竜宮入りの話-」より) <答え>するど
リーランドいう、妖巫や邪視する人が、かく縺れ絡んだ物を見ると、線の始めから終わりまで、細しく視届けるその間に、邪念も邪視力も大いに弱り減ずる故、災難を起こし得ぬ。(南方熊楠「十二支考 -蛇に関する民俗と伝説-」より) <答え>くわ
仙といふは露を喫し葉を衣るものを言うのでは無い。(幸田露伴「努力論」より) <答え>き
老人は当人に代わって、満洲の野に日ならず出征すべきこの青年の運命を余に語げた。(夏目漱石「草枕」より) <答え>つ
つまりこうしてこうした舞台上の鼻の表現を補けるためではないかと考えられます。(夢野久作「鼻の表現」より) <答え>たす
いと好く咲きたる枝を飽かず見上げし母の目は、この時漸く娘に転りぬ。(尾崎紅葉「金色夜叉」より) <答え>うつ
…大神は富貴の案を主っておられますから、お呵りを顧みずにお願いいたします、…(田中貢太郎「富貴発跡司志」より) <答え>つかさど
なぜ、いつまで、陳い、狭い、文学青年的な考えから離れて、衆の文学へ、あの人達は、努力する気になれないのか。(吉川英治「折々の記」より) <答え>ふる
木蘭色の無垢を着て左の手に女郎花桔梗、右の手に朱塗(しゅ)の把りの鋏持たせられしまま、図らずここに来かかりたまいぬ。(幸田露伴「五重塔」より) <答え>にぎ
つくづく静かに思惟すれば、我憲清と呼ばれし頃は、力を文武の道に労らし命を寵辱の岐に懸け、密かに自ら我をば負み、老病死苦の免さぬ身をもて貪瞋痴毒の業をつくり、…(幸田露伴「二日物語」より) <答え>つか、たの、ゆる
与次郎の如きは篤実なる所より可笑味(おかしみ)の出る者にて、この役にて名を留めたる坂東寿太郎や二代目三十郎は知らず、誰がしてもはしりもとや冗口に己が気を入れて、与次郎らしき者は近来絶無の姿。(三木竹二「両座の『山門』評」より) <答え>むだぐち
殆ど何人と雖も彼の秘密に係(たずさ)わるをえざりき、わがこの栄えある職めに忠なりし事いかばかりぞや、我之がために睡りをも脈をも失えり。(Alighieri Dante/山川丙三郎訳「神曲 -地獄-」より) <答え>つと
青淀の岩壁をかく穿つもの、滲みいずる滴りの淡水(まみず)とは誰か思わん。など知らん、しばしばも吹き通う雲、上ぬめる繊き根のありとある脈さぐるを。(北原白秋「新頌」より) <答え>すじ
…先年予が日本に在職中にありたることを回想すればかかる風説は日本政府の心を疾ましむるに相違なかるべしといい、…(徳富蘇峰「将来の日本」より) <答え>や
少く楽まされし貫一も、これが為に興冷めて、俄かに重き頭を花の前に支えつつ、又かの愁いを徐々に喚び起こさんと為つ。(尾崎紅葉「金色夜叉」より) <答え>しばら
然し、手紙は人にでも見られると面倒ですから、お辞りをします。(尾崎紅葉「金色夜叉」より) <答え>ことわ
人蠎われいまだ死せざるに、この者われを易り、取り次ぎもなしに入り来ると瞋って毒気を吐くを、舎利弗慈恵を以て攘い、光顔ますます好く、一毛動かず。(南方熊楠「十二支考 -田原藤太竜宮入りの話-」より) <答え>あなど
五百の姉安を娶った長尾宗右衛門は、兄の歿した跡を襲いでから、終日手杯を釈かず、塗り物問屋(どいや)の帳場は番頭に任せて顧みなかった。(森鴎外「渋江抽斎」より) <答え>お
その重治が生前から気に痛んでいたこととあるのに、どうしてこの秀吉とて反けよう。(吉川英治「新書太閤記 -第六分冊-」より) <答え>や、そむ
…困りしは立像刻む程の大きなる良き木なく百方索したれど見当たらねば厚き檜の大きなる古板を与えぬ。(幸田露伴「風流仏」より) <答え>さが
堅緻なる火山岩は統ぶるものなくうち紛れたり、これとかれと互いに合わんとして曽て合わず、満ちし潮のいつしかその罅隙(ひま)に溢れたるが、はげしき夏の日にあたためられ、ここに適度の温浴を供す。(蒲原有明「松浦あがた」より) <答え>みだ
塵をだに容さず澄みに澄みたる添景の中に立てる彼の容華(かおばせ)は清く鮮やかに見勝りて、玉壺に白き花を挿したらん風情あり。(尾崎紅葉「金色夜叉」より) <答え>ゆる
またその傍(かたえ)なるかの蠟燭の光を見よ、こは肉体の中にありて、天使の性とその役めとをいと深く見し者なりき。(Alighieri Dante/山川丙三郎訳「神曲 -天堂-」より) <答え>つと
夜烏子は山の手の町に居住している人たちが、意義なき体面に累わされ、虚名のために齷齪しているのに比して、裏長屋に棲息している貧民の生活が遥かに廉潔で、また自由である事をよろこび、病余失意の一生をここに隠してしまったのである。(永井荷風「深川の散歩」より) <答え>わずら
偶来って蘭軒の故宅を買うものが、争(いか)でか蘭軒の徳風に式ることを得よう。(森鴎外「伊沢蘭軒」より) <答え>のっと
二人はそれから権作老爺の許へ行って、二人前の風呂敷包を預けたが、戸外の冷ややかな夜風が、耳を聾する許りな虫の声を漂わせて、今夜限り此生まれ故郷を逃げ出すべき二人の娘にいう許りなき心悲しい感情を起こさせた。(石川啄木「天鵞絨」より) <答え>うらがな
日の晩れから鳴き出して夜更けにも鳴くことがあるが時としては二羽のつれ鳴きに鳴く声が聞こえる事がある。(正岡子規「病牀六尺」より) <答え>く
「こまつぶり」でも、廻しているのかと思って、後ろから覗いて見ると、何処かから迷って来た、尨犬の首へ縄をつけて、打ったり殴いたりしているのであった。(芥川龍之介「芋粥」より) <答え>たた
政権が武家に移ったのは、昔の昔の話で、その武家すら政権というべきほどのものを持たなかった足利の中葉以後のことであるから、普通の意味で理解される政治とほとんど交渉を絶たれた当時の朝廷に、繁多の政務のあるべきはずがなく、したがって公卿の従事すべき公務とても、恒例臨時の節会を除けば、外は時々の除目または御料所の年貢の催し、神社仏閣の昇格の裁許くらいのものである。(原勝郎「東山時代における一縉紳の生活」より) <答え>うなが
父や瑠璃子の苦しみなどとは、没交渉に、否凡ての人間の喜怒哀愁とは、何の渉わりもなく、六月は暮れて行った。(菊池寛「真珠夫人」より) <答え>かか
その僕これを奇しみ私かにその被いを開くと、皿上に白蛇あり、一口嘗むるとたちまち雀の語を解し得たので、王の一切智の出所を了ったという。(南方熊楠「十二支考 -蛇に関する民俗と伝説-」より) <答え>さと
これ程女の節を立て通した自分に、何処に非難がある、と彼女の鋭い眼付きが言った。(島崎藤村「家(下)」より) <答え>みさお
わたくしの京水研究は且く此に停止する。(森鴎外「伊沢蘭軒」より) <答え>しばら
譬えば一条の糸にては象を係ぐこと難けれど多くの糸を集めて縄となさば大象をも係ぐを得べきがごとく、兄弟力を併せて家を保たんには家も無事長久なるべけれど汝等互いに私慾を図りて分かれ分かれとなりなば、一条の糸の弱きがごとくなりて家も衰え亡ぶべし。(幸田露伴「印度の古話」より) <答え>つな
また竜の三患というは、竜は諸鱗虫の長で、能く幽に能く明に、能く大に能く小に、変化極まりなし、だが第一に熱風熱沙毎(いつ)もその身を苦しめ、第二に悪風暴かに起これば身に飾った宝衣全く失わる、第三には上に述べた金翅鳥に逢うと死を免れぬ、…(南方熊楠「十二支考 -田原藤太竜宮入りの話-」より) <答え>にわ
ひと足遅れてのぼり来る姫の息促りて苦しげなれば、あまたたび休みて、漸う上にいたりて見るに、ここはおもいの外に広く、めぐりに低き鉄欄干をつくり、中央に大なる切り石一つ据えたり。(森鴎外「文づかひ」より) <答え>せま
妻とのせっぱつまった苦しい感情、父、弟からの人間として遠い感情、この一郎の暗澹とした前途をHさんは「一撃に所知を亡う」香厳の精神転換、或いは脱皮をうらやむ一郎の心理に一筋の光明を托して、一篇の終わりとしているのである。(宮本百合子「漱石の『行人』について」より) <答え>うしな
乱戦のあとを思い出してみれば、小屋が黒煙を吐いたとき、中にいた渡し船の老爺だの、土民らしい者が何人か、こけつ転びつ逃げて行った。(吉川英治「平の将門」より) <答え>まろ
源三の腹の中は秘しきれなくなって、ここに至ってその継子根性の本相を現してしまった。(幸田露伴「雁坂越」より) <答え>かく
径何十尺の円を描いて、周囲に鉄の格子を嵌めた箱をいくつとなくさげる。(夏目漱石「虞美人草」より) <答え>さしわたし
私はドストエフスキーなどを読むときに、いつも彼が正直羞恥、信ずる心、容れる能きなどを問題として、インテレッシイレンしているのに、深く感動されます。(倉田百三「青春の息の痕」より) <答え>はたら
また応永二十二年、北畠満雅阿射賀城に拠りしを足利方の大将土岐持益囲んで水の手を留めた節も、満雅計りて白米を馬に掛けて沢山な水で洗うと見せ敵を欺き果せた。(南方熊楠「十二支考 -馬に関する民俗と伝説-」より) <答え>おお
女は父母の命せと媒妁(なかだち)とに非ざれば交わらずと、小学にもみえたり。(福沢諭吉「女大学評論」より) <答え>おお
已にして幕府の吏と陣を設くるの処を議し、論累りに合わず。(徳富蘇峰「吉田松陰」より) <答え>しき
されど久しきに勝えずやありけん、卒かに起たんとして、かの文殻の委きたるを取り上げ、庭の日陰に歩み出いでて、…(尾崎紅葉「金色夜叉」より) <答え>た、にわ、お
夜の静けさと闇とに飽いている上野の森を背に負うた、根岸の家の一間で、電灯は軟らかい明かりを湛え、火鉢の火が被った白い灰の下から、羅を漏る肌の光のように、優しい温まりを送る時、奥さんと己とは、汽車の座席やホテルの食卓を偶然共にした旅人と旅人とが語り交わすような対話をしている。(森鴎外「青年」より) <答え>うすぎぬ
すると男は、一刻も早く自分が普通の乞食でないのを白らかにしようとするように、「…(略)…」と言った。(石川啄木「葉書」より) <答え>あき
かつての自分の誇りであった・白刃前に接わるも目まじろがざる底の勇が、何と惨めにちっぽけなことかと思うのである。(中島敦「弟子」より) <答え>まじ
言わば大器小用で、小さき民や小さき所には、たとい誓言するにも至尊や大廟の御名を引かず、同じく皇室御先祖の連枝ながらさまで大義に触れざる夷子社や山の神を手近く引くほどの準備は縦し置かれたきことなり。(南方熊楠「神社合祀に関する意見」より) <答え>ゆる
雪の重さがやわらかに時間に零りつもる。(高祖保「独楽」より) <答え>ふ
われ汝らを高うせんために自己(みずから)を卑うし、価なくして神の福音を伝えたるは罪なりや。(太宰治「パウロの混乱」より) <答え>ひく
その小さいことを透して大きな主観が泌み出るということは、作家の技倆に依る。(高浜虚子「俳句への道」より) <答え>にじ
足を蹈み、前を駆う声が、耳もとまで近づいて来ていた。(折口信夫「死者の書」より) <答え>お
しかしその顔は以前よりも、遥かに柔しみを湛えていた。(芥川龍之介「将軍」より) <答え>やさ
燕王壮士万人を分かちて敵の援兵を遮らしめ、子高煦をして兵を林間に伏せ、敵戦いて疲れなば出でて撃つべしと命じ、躬ら師を率いて逆え戦い、騎兵を両翼と為す。(幸田露伴「運命」より) <答え>むか
この男は少し変わりもので、横着もので、随分人をひやかすような口ぶりをする奴ですから、『殴るぞ』と尺八を構えて喝す真似をしますと、彼奴(きゃつ)急に真面目になりまして、『修蔵様に是非見てもらいたいものがあるんだが見てくれませんか』と妙なことを言い出したのでございます。(国木田独歩「女難」より) <答え>おど
奥方は小笠原兵部大輔秀政の娘を将軍が養女にして妻わせた人で、今年四十五歳になっている。(森鴎外「阿部一族」より) <答え>めあ
アイモニエー曰く、猫往昔(むかし)虎に黠智と躍越法を教えたが特り糞を埋むる秘訣のみは伝えず、これを怨んで虎今に猫を嫉むとカンボジアの俗信ずと。(南方熊楠「十二支考 -虎に関する史話と伝説民俗-」より) <答え>ひと
表面、降伏とはいわれていないが、尊氏の勧めをいれて、いくさを休め、ここの大本営を出で給う上からは、そしてあとの処置も御運命も敵まかせであるからには、どう繕っても、朝家の屈辱たることにかわりはない。(吉川英治「私本太平記 -湊川帖-」より) <答え>や
梅の外には一木無く、処々の乱石の低く横たわるのみにて、地は坦らかに氈を鋪きたるようの芝生の園の中を、玉の砕けて逬り、練の裂けて翻る如き早瀬の流れありて横さまに貫けり。(尾崎紅葉「金色夜叉」より) <答え>ねりぎぬ
右の婦人細き竹杖で壁隙より刺すと婢腹病むというて戸を開き廁に如く。(南方熊楠「十二支考 -虎に関する史話と伝説民俗-」より) <答え>ゆ
一は上祖師ヶ谷で青山街道に近く、一は品川へ行く灌漑用水の流れに傍うて居た。(徳冨健次郎「みみずのたはこと」より) <答え>そ
抗み騒ぎ枝にひた縋る燕の揺れ一羽は宙にまだ羽うちつつ(北原白秋「雀の卵」より) <答え>こば
これまでガマズミの実が衣布の染料になると言った人もまた書いた人も一向になかったが、しかしいみじくも万葉の歌がそれが染め料になるべき事実を明らかに誨え証拠立てて居る事は全く該の歌の貴い所であるというべきダ。(牧野富太郎「植物記」より) <答え>そ
泯滅寧ぞ欽(うらや)むに足らんや。(幸田露伴「運命」より) <答え>なん
瘍が背中に出来た由です。(宮本百合子「獄中への手紙 -一九三九年(昭和十四年)-」より) <答え>かさ/できもの
…今二十五歳になりて、既に久しくこの自由なる大学の風に当たりたればにや、心の中なにとなく妥やかならず、奥深く潜みたりしまことの我は、ようよう表にあらはれて、きのうまでの我ならぬ我を攻むるに似たり。(森鴎外「舞姫」より) <答え>おだ
これを灰に焼いて服ますとその人咳を病む、しかし死ぬほどの事なし。(南方熊楠「十二支考 -虎に関する史話と伝説民俗-」より) <答え>の
余の郷里にはホゴ、メバルなどいう四、五寸ばかりの雑魚を葛に串いて売って居る。(正岡子規「墨汁一滴」より) <答え>つらぬ
信長もまた、少年の時から、鷹狩りは好きだと聞いていたので、凡ならぬ好意を示してきたわけである。(吉川英治「新書太閤記 -第三分冊-」より) <答え>なみ
願わくは予は天下為すあらんとするの人と共に、之を口称心念して遺れざらんとするのである。(幸田露伴「努力論」より) <答え>わす
けだし社会は個々の家よりなるものにして、良家の集合すなわち良社会なれば、徳教究竟の目的、はたして良社会を得んとするにあるか、須らく本に返りて良家を作るべし。(福沢諭吉「読倫理教科書」より) <答え>すべか
…起きいるままに本意ならぬ粧いも、色を好める夫に勧められて、例の美しと見らるる浅ましさより、猶甚だしき浅ましさをその人の陰に陽に恨み悲しむめり。(尾崎紅葉「金色夜叉」より) <答え>ひなた
すめらみことは、戦いにおおみずからは出でまさね、互に人の血を流し、獣の道に死ねよとは、死ぬるを人の誉れとは、おおみこころの深ければ、もとより如何で思されん。(與謝野晶子「君死にたまふことなかれ」より) <答え>かたみ
燕王これを聞きて、保定失われんには北平危しとて、遂に令を下して師を班す。(幸田露伴「運命」より) <答え>かえ
跋文を読むに、この書は二世瑞仙晋の子直温、字は子徳が、慶応元年九月六日に、初代瑞仙独美の五十年忌辰に丁たって、新たに歴代の位牌を作り、併せてこれを纂記して、嶺松寺に納めたもので、直温の自筆である。(森鴎外「渋江抽斎」より) <答え>あ
これなどは明らかに賤が伏屋の最も凡庸なる者の生活であって、和歌にはすでに見離され、俳諧はなおその客観の情趣を、取り上げてあわれと詠めているのであった。(柳田国男「木綿以前の事」より) <答え>なが
そもそも天の此文を喪ぼさざるの深意なるべし。(福沢諭吉「中元祝酒の記」より) <答え>ほろ
それがわかって除(と)り去かれたら、どんなにさっぱりするだろうと思った。(林不忘「あの顔」より) <答え>のぞ
その可否のごときは吾輩賤人の議すべきでないが、社会の上層既にかかる因襲を廃せぬに、下層凡俗それ相応に鬼門の忌を墨守するを、吾輩何と雑言したりとて破り撤てしめ得らりょうぞ。(南方熊楠「十二支考 -馬に関する民俗と伝説-」より) <答え>す
幕府を廃め、政(まつり)を古に回(かえ)すなどは空名になる。(吉川英治「私本太平記 -風花帖-」より) <答え>や
予てこの王を侮り外出したら縛りに往くと言い来った四遠の諸国、王が城を出で苑に住まると聞き大兵を興し捉えに来る。(南方熊楠「十二支考 -馬に関する民俗と伝説-」より) <答え>とど
精力的な五十歳がらみの肉むらをくるむ紫衣と金襴からは、名木の香と人間臭とが一つに交じって立ちのぼっている。(吉川英治「私本太平記 -建武らくがき帖-」より) <答え>しし
残灯もろくも消えて徳川氏の幕政空しく三百年の業を遺し、天皇親政の曙光漸く升りて、大勢頓(には)かに一変し、事々物々其の相を改めざるはなし。(北村透谷「明治文学管見」より) <答え>のぼ
サウシの書に若いポルトガル人が群狼に襲われ樹上に登って害を免がれ後日の記念にその樹を伐り倒し株ばかり残して謝意を標した。(南方熊楠「十二支考 -兎に関する民俗と伝説-」より) <答え>しる
まだその頃は女子によし生まるとも父の恐れとならざりき、その婚期(とき)その聘礼(おくりもの)いづれも度を超えざりければなり。(Alighieri Dante/山川丙三郎訳「神曲 -天堂-」より) <答え>のり
この苛酷なる判決を避けるために、言を巧みにし色を令くせんとする者も、つとめて荒(あらあら)しくする風がある。(自警録「新渡戸稲造」より) <答え>よ
二度とふたたびお逢いできぬだろう心もとなさ、謂わば私のゴルゴタ、訳けば髑髏、ああ、この荒涼の心象風景への明確なる認定が言わせた老いの繰りごと。(太宰治「二十世紀旗手」より) <答え>と
…波羅門太子に教えこの栴檀を奉って立身せよという、太子往きて王に献り王これを身に塗って全快し約のごとく半国を与うるも受けず、その代わりに王に乞うて五十日間あまねく貧民に施さしむ。(南方熊楠「十二支考 -虎に関する史話と伝説民俗-」より) <答え>たてまつ
ある時は支度金を取って諸侯の妾に住み込み、故意に臥所に溺して暇になった。(森鴎外「細木香以」より) <答え>いばり/ゆばり
わたくしは天保以後の画家中に就いて此の名を討ねたが見当らなかった。(森鴎外「伊沢蘭軒」より) <答え>たず
良有りて予はその灯影なるを確かめたり。(泉鏡花「黒壁」より) <答え>やや
極楽ももう午に近くなったのでございましょう。(芥川龍之介「蜘蛛の糸」より) <答え>ひる
彼は内政改革において、水戸烈公を援いて、その味方としたる如く、外交においても、彼と結托して、以て為す所あらんと欲せり。(徳富蘇峰「吉田松陰」より) <答え>ひ
人民もしこの趣意を忘れて、政府の処置につきわが意に叶わずとて恣に議論を起こし、あるいは条約を破らんとし、あるいは師を起こさんとし、はなはだしきは一騎先駆け、自刃を携えて飛び出すなどの挙動に及ぶことあらば、国の政は一日も保つべからず。(福沢諭吉「学問のすすめ」より) <答え>いくさ
ニキタはぱッと戸とを開けるより、阿修羅王の荒れたる如く、両手と膝でアンドレイ、エヒミチを突き飛ばし、骨も砕けよとその鉄拳を真っ向に、健か彼の顔を敲き据えた。(Anton Chekhov/瀬沼夏葉訳「六号室」より) <答え>したた
…という四本の鬮の何(どれ)が出ても差し支え無しという涼しい料簡で、それで木村父子と氏郷とを鎖で縛って膠で貼けたようにしたのかも知れない。(幸田露伴「蒲生氏郷」より) <答え>つ
そして煎薬を自分で沸てて来て、『これを一杯飲んでゆくがいい。すぐ頭が軽くなろうで』と、すすめた。(吉川英治「魚紋」より) <答え>た
ポツジヨの興は風浪の高きに従いて高く、掌を抵ちて哄笑し、海に対して快哉を連呼せり。(Hans Christian Andersen/森鴎外訳「即興詩人」より) <答え>う
役所は免められ、眼はとうとう片方が見えなくなり片方は少し見えても物の役には立たず、そのうち少しの貯蓄(たくわえ)はなくなってしまいました。(国木田独歩「女難」より) <答え>や
たとい造仏の完成は後年であろうとも、天武天皇の信仰は、持統、文武、元明の三朝を通して、語り継ぎ言い継ぎ擁られて行ったに相違ないと思う。(亀井勝一郎「大和古寺風物誌」より) <答え>まも
わたくしは榛軒が何歳を以て就学したか知らない。権に十四歳を以てしたとすると、恰も好し棭斎が常関書屋に隠れた時である。(森鴎外「伊沢蘭軒」より) <答え>かり
橋下水深く流れ闊くして、遠く海上を望む風景おのずから浩大にして、大河の河口たるに負かざるの趣致あり。(幸田露伴「水の東京」より) <答え>そむ
すわや海上の危機は逼ると覚(おぼ)しく、あなたこなたに散在したりし数十の漁船は、北ぐるがごとく漕ぎ戻しつ。(泉鏡花「取舵」より) <答え>に
もし人の国家を破り、人の社稷を滅ぼし、百姓の力を罷らし、百姓の財を尽くし、人の父を殺し、人の子を孤にし、乱政虐刑をなし、もって天下を残賤するの人をもって英雄豪傑とせば、かのナポレオン、ビスマルク、ゴルチャコフのごとき実にその人なりといえども、…(徳富蘇峰「将来の日本」より) <答え>つか
床几に休い打ち眺むれば、客幾組、高帽の天窓(あたま)、羽織の肩、紫の袖、紅の裙、薄に見え、萩に隠れ、刈萱に搦み、葛に絡い、芙蓉にそよぎ、靡き乱れ、花を出ずる人、花に入る人、花をめぐる人、皆此の花より生まれ出でて、立ち去りあえず、舞いありく、人の蝶とも謂いつべう。(泉鏡花「彌次行」より) <答え>いこ
此処が槍の直下だろうとて、荷物を委てて行こうとすると、もう一つ小峰があるとの事、で早々纏めてまた動き出す。(鵜殿正雄「穂高岳槍ヶ岳縦走記」より) <答え>す
この六月、軍務官知事として、会津征討越後口総督として征途に就かれ、廿七日には、敦賀に次られている。(折口信夫「橘曙覧評伝」より) <答え>やど
いや、それと同時に長い睫毛の先へ、涙を一ぱいためながら、前よりも緊く唇を噛みしめているのでございます。(芥川龍之介「地獄変」より) <答え>かた
…その技芸素より今日の如く発達しおらぬ時の事とて、科といい、白といい、ほとんど滑稽に近く、全然一見の価なきものなりき。(福田英子「妾の半生涯」より) <答え>しぐさ、せりふ
忽然、うす黒い瞼を落とし、まだ三十六歳の若い寿に終りを告げた。(吉川英治「三国志 -望蜀の巻-」より) <答え>とし
いざさらば 住めば仏のやどりさえ 火炎(ほのお)の宅となるものを なぐさめもなき心より 流れて落つる涙かな(島崎藤村「若菜集」より) <答え>いえ
燕兵勢いに乗じて営に逼り火を縦つ。(幸田露伴「運命」より) <答え>はな
外套をばここにて脱ぎ、廊をつたいて室の前まで往きしが、余は少し踟蹰(ちちゅう)したり。(森鴎外「舞姫」より) <答え>わたどの
近年新聞紙の報道するところについて見るに、東亜の風雲はますます急となり、日支同文の邦家も善隣の誼を訂めている遑がなくなったようである。(永井荷風「十九の秋」より) <答え>さだ
…銀座柳も蘇る今日、昔恋しい三遊柳、当時の繁昌喚ばしめたまえと、新東京の四方様方に、伏してお願い申し上げます。(正岡容「寄席行燈」より) <答え>さけ
その村に周という家の庭園があって、牆は頽れ家は破れて、ただ一つの亭のみが残っていたが、涼しいので村の人達がたくさんそこへ泊りにいった。(蒲松齢/田中貢太郎訳「王成」より) <答え>あずまや
蒲田が腕は電光の如く躍りて、猶言わんとせし貫一が胸先を諸摑みに無図(むず)と捉りたり。(尾崎紅葉「金色夜叉」より) <答え>もろつか、と
かく気の沈んで居る時には、賑わしき光景にても眺めなば、幾分か心を慰むる因ともならんと考えたので、私は両人を引き連れて、此の時一番に賑わしく見えた船首の方へ歩を移した。(押川春浪「海島冐檢奇譚 海底軍艦」より) <答え>よすが
此の肉体と霊魂(たましい)と離れる時は其の霊魂は何処へ去きますか、どうも是は分からん。(三遊亭円朝「明治の地獄」より) <答え>ゆ
或る日こういう場合に、安が停めようとすると、宗右衛門はこれをも髪を攫んで拉き倒して乱打し、「出て往け」と叫んだ。(森鴎外「渋江抽斎」より) <答え>ひ
君さけぶ道のひかりの遠を見ずやおなじ紅(あけ)なる靄たちのぼる(与謝野晶子「みだれ髪」より) <答え>おち
と、また松の上に火の団が見えて、見えたかと思うと、またばらばらに散った。(田中貢太郎「鷲」より) <答え>かたまり
軈て、白い手を出して籾を抄って見た。(島崎藤村「破戒」より) <答え>すく
いぶかりつつも披きて読めば、とみの事にて預め知らするに由なかりしが、昨夜(よべ)ここに着せられし天方大臣に附きてわれも来たり。(森鴎外「舞姫」より) <答え>あらかじ
そう、他に思い当ることはないが、一つ怪しいことがあるんだ、今、乃公(おれ)があの林(やぶ)で雉や兎をとったと云ったね、その時分じゃ、ある時、林の中へ往ってみると、昨日までなかった処に、土を掘りかえして、物を埋めたような処ができて、そのまわりの落ち葉へ生なました血が滴れていたがね、それから二三年して、大旦那が死んだとき、人に聞くと、どうもそのあたりらしかったよ、どうも、乃公は、あの血が怪しいと思ってる。(田中貢太郎「赤い花」より) <答え>た
容貌も亦美し、絶だ美しと伝えらる。(Hans Christian Andersen/森鴎外訳「即興詩人」より) <答え>はなは
畔柳はこの手より穫るる利の半ばは、これを御殿の金庫に致し、半ばはこれを懐にして、鰐淵もこれに因りて利し、金は一にしてその利を三にせる家令が六臂の働きは、主公が不生産的なるを補いて猶余りありとも謂うべくや。(尾崎紅葉「金色夜叉」より) <答え>とりい
朱は僅かに腹のあたりが麻れるばかりであった。(田中貢太郎「陸判」より) <答え>しび
当今、宝蔵院の槍は伊賀の名張に下石おろしと申すのがござる、これがよく流儀の統をわきまえておられるはず、あちらへお越しの時に立ち寄って御覧(ごろう)じろ。(中里介山「大菩薩峠 -三輪の神杉の巻-」より) <答え>すじ
われ橋上に立って友を顧み、同に岸上の建家を品す。(北村透谷「漫罵」より) <答え>とも
宮は牀几に倚りて、半ばは聴き、半ばは思いつつ、膝に散り来る葩を拾いては、おのれの唇に代えて連りに咬み砕きぬ。(尾崎紅葉「金色夜叉」より) <答え>しき
陰々として鐘声の度るを聞けり。(泉鏡花「義血侠血」より) <答え>わた
そこで民を牧う者は古から意をかかる事にも用いたのである。(幸田露伴「震は亨る」より) <答え>やしな
執事幸いに明察を垂れ、請う所を許諾せられなば、何の恵かこれに尚えん。(徳富蘇峰「吉田松陰」より) <答え>くわ
桓武平氏が阪東に根を張り枝を連ねて大勢力を植つるに至ったことは、此の高望王が上総介や常陸大掾になられたことから起こるのである。(幸田露伴「平将門」より) <答え>た
自分を防る時には、その鞘から引き出して、その尖を、無遠慮な指に突っ込むのだ。(Jean-Henri Fabre/大杉栄、伊藤野枝訳「科学の不思議」より) <答え>まも
人若し諦と法と不害と禁戒と柔善とあれば、彼こそ已に垢を吐きたる聡き長老と謂わる。(「法句経」《作者不詳》より) <答え>まこと
名乗って出てお上の御処刑を受けた跡でお題目の一遍も称げてお呉れ。(三遊亭圓朝「政談月の鏡」より) <答え>あ
すでに禁門を犯してなだれこんだ魏兵は、甲を着、戈を持って、南殿北廂の苑にわに満ちみちていた。(吉川英治「三国志 -出師の巻-」より) <答え>よろい
疾く往きて、疾く還らんと、遽かに率いし俥に乗りて、白倉山の麓、塩釜の湯、高尾塚、離室(はなれむろ)、甘湯沢、兄弟滝(あにおととのたき)、玉簾瀬(たまだれのせ)、小太郎淵(こたろうがぶち)、路の頭に高きは寺山、低きに人家の在る処、即ち畑下戸(はたおり)。(尾崎紅葉「金色夜叉」より) <答え>ほとり
お附きの者に連れられて自分の室に帰って、昨日にも倍して結構な朝御飯を済ました。(夢野久作「白髪小僧」より) <答え>ま
アルゴス陣は退きて其の殺戮の手を留め、心に思う、衆星の羅なる天を降り来るとある神明トロイアを助けて斯くも奮わすと。(Homer/土井晩翠訳「イーリアス」より) <答え>つら
父が猟に出かける日の前夜は、定まって母は父に小言をいった。(横光利一「洋灯」より) <答え>き
如し日が東に昇れば則ち花は東に朝(むか)う。(牧野富太郎「植物知識」より) <答え>も
諺に曰く、親者之を割けども断たず、疎者之を続げども堅からずと、是殊に理有る也となし、燕の兵を挙ぐるに及びて、財を糜びし兵を損して而して功無きものは国に謀臣無きに近しとなし、願わくは斉王を釈し、湘王を封じ、周王を京師に還し、諸王世子をして書を持し燕に勧め、干戈を罷め、親戚を敦うしたまえ、然らずんば臣愚おもえらく十年を待たずして必ず噬臍の悔いあらん、というに在り。(幸田露伴「運命」より) <答え>ゆる
修業の出来ぬも、事の成らぬも、過ちを改むることの出来ぬも、功に伐り驕謾の生ずるも、皆自ら愛するが為なれば、決して己を愛せぬもの也。(西郷隆盛「遺訓」より) <答え>ほこ
下宿にある岸本は当分客を謝るようにして、殆ど誰にも逢わずに屛居の日を送っていた。(島崎藤村「新生」より) <答え>ことわ
暫くの内に汝が父の冤家がここへ来る、白衣を著、跣足で頭に紫巾を戴き、手に一巻の文書を把る者がそれだ。(南方熊楠「十二支考 -鶏に関する伝説-」より) <答え>き
大石が東京新聞を見てしまって、傍に畳ねて置いてある、外の新聞二三枚の文学欄だけを拾い読みをする処へ、さっきの名刺の客が這入ってきた。(森鴎外「青年」より) <答え>かさ
それよりまた梯子を上り、百万遍の念珠、五百羅漢、弘法大師の護摩壇、十六善神などいうを見、天の逆鉾、八大観音などいうものあるあたりを経て、また梯子を上り、匍匐(はらば)うようにして狭き口より這い出ずれば、忽ち我が眼我が耳の初めてここに開けしか、この雲行く天、草芳る地の新たにここに成りしかを疑う心の中のすがすがしさ、更に比えんかたを知らず。(幸田露伴「知々夫紀行」より) <答え>かお
…其の夜それからというものは真実(ほんと)、真実でござりまする上人様、晴れて居る空を見ても灯光(あかり)の達かぬ室の隅の暗いところを見ても、白木造りの五重の塔がぬっと突っ立って私を見下ろしておりまするわ、…(幸田露伴「五重塔」より) <答え>とど
しかも摩利信乃法師の容子では、私どももただ、神仏を蔑されるのが口惜しいので、闇討ちをしかけたものだと思ったのでございましょう。(芥川龍之介「邪宗門」より) <答え>なみ
物の機でございましょう、下に鋸の歯のようになった処がございまして、その上へ落ちたものでございますから。(田中貢太郎「海神に祈る」より) <答え>はずみ
然るに世を易うるの後は迭いに兵を擁して、以て皇帝を危うくせり。(幸田露伴「運命」より) <答え>たが
…夫尺蠖は伸びて而も還屈み、車輪は仰いで而も亦低る、…(幸田露伴「二日物語」より) <答え>また、た
腹稿已に成り、これを目付けの巡獄者に訴うれども、獄吏は拘るに故事を以てし、筆墨を与えず、ここを以て果たさず。(徳富蘇峰「吉田松陰」より) <答え>こだわ
庭木に吊した籠の中の声を聞いて、客はふしぎそうに問ねるのである。(室生犀星「懸巣」より) <答え>たず
こうして気を静めて自分の思想の出どころを考えてみると、白鉢巻、白兜の人は確かに著いたが、決して自分を呼び出しには来なかった。(魯迅/井上紅梅訳「阿Q正伝」より) <答え>つ
ところが校長先生は、つい四、五日前単身奥利根の方から転任してきたばかりだと言って、小ざっぱりした百姓家の第に下宿していたのである。(佐藤垢石「酒徒漂泊」より) <答え>やしき
もうお前さんと同じ卓に坐っているのも厭だわ。(August Strindberg/森鴎外訳「一人舞台」より) <答え>つくえ
甲州街道を新宿へ行く間には、大きな犬、強い犬、暴い犬、意地悪い犬が沢山居る。(徳冨健次郎「みみずのたはこと」より) <答え>あら
しかし名と実とが相伴なわねば、とかく誤りをきたしやすいから、名はできうるだけ明らかにしておくに若くはない。(新渡戸稲造「自警録」より) <答え>し
天日を陰くして薨々とむらがり飛ぶ、斯螽。(高祖保「雪」より) <答え>くら
端午は、端めの午である。(折口信夫「偶人信仰の民俗化並びに伝説化せる道」より) <答え>はじ
この写真が、いま言った百人一首の歌留多のように見えるまで、御堂は、金碧蒼然としつつ、漆と朱の光を沈めて、月影に青い錦を見るばかり、厳そかに端しく、清らかである。(泉鏡花「夫人利生記」より) <答え>ただ
何にもせよ暦の春が立ち返ると、西は筑紫の海の果てから、東は南部・津軽の山の蔭に及ぶまで、多くの農民の行事がほとんどわずかの変化もなしに、一時一様に行わるるは今なお昨のごとくであって、しかも互いに隣県に同じ例のあることも知らぬらしいのは、すなわちまたこれらの慣習の久しい昔から、書伝以外において持続していたことを意味するものでなくて何であろう。(柳田国男「雪国の春」より) <答え>きのう
そして奥さんの白い滑かな頬を批たずに帰ったのを遺憾としただろう。(森鴎外「青年」より) <答え>う
外人が鋭意して真似んともがく所以のものを、われにありては浪りに滅却し去りて悔ゆるなからんとするは、そもそも何の意ぞ。(南方熊楠「神社合祀に関する意見」より) <答え>みだ
煙管の針の先で、飴のような阿片の丸が慄(ふる)えながらじいじいと音を立てた。(横光利一「上海」より) <答え>たま
心得たか、と語らせ給えば、羅漢の末席に侍いて、悟り顔の周梨槃特、好(この)もしげなる目色(めつき)にて、わが仏、わが仏殿と道人の問答より、木の葉はを衾の男女の睦言、もそっとお説きなされと言う。(泉鏡花「妙齡」より) <答え>さぶら
日の金牛宮を過ぐるとき誕まれぬ。(Hans Christian Andersen/森鴎外訳「即興詩人」より) <答え>う
彼の幼きや土塊を以て宮闕の状を為り、曰く、これ織田信長が禁裡の荒廃を修繕したるに擬するなりと。(徳富蘇峰「吉田松陰」より) <答え>つく
帯の紐か袂に付けている鈴でもあろうか、躍ってゆく影につれて、弄(なぶ)るような美い音がして、二人の耳へ妙に残った。(吉川英治「宮本武蔵 -地の巻-」より) <答え>よ
景隆は召し還されしが、黄子澄、練子寧は之を誅せずんば何を以て宗社に謝し将士を励まさんと云いしも、帝卒に問いたまわず。(幸田露伴「運命」より) <答え>つい
季弟孝友また逮えられて将に戮せられんとす。(幸田露伴「運命」より) <答え>とら
渋江抽斎の挈えて往った妻は比良野氏威能で、前年己丑に帰いで、次年辛卯には死ぬる女である。(森鴎外「伊沢蘭軒」より) <答え>とつ
他人の運命を思えば黙しがたく、しかも働きかけることが、他人を益するとの自信を握りかぬる弱者である。(倉田百三「愛と認識との出発」より) <答え>もだ
冬は、母親のを縫いちぢめた、じみいなじみいな着物を着て、はげしい寒さに、鼻を毒なわれない子供はなく皆だらしない二本棒をさげて居る。(宮本百合子「農村」より) <答え>そこ
子供の潔癖は、特に私には酷だしかったのです。(島崎藤村「幼き日」より) <答え>はなは
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