最終回の今回はいよいよ(九)文章題の解答・解説です。
未挑戦の方は見てしまわないようご注意ください。
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◇解答
(九)
1.殯
2.鼾声
3.壟断
4.商賈/商估
5.甸服
6.朝餉
7.出来
8.諫鼓
9.命世/[名世]
10.守文
ア.そうぼう
イ.とお
ウ.ころ
エ.もと
オ.ひら
カ.もち
キ.がひょう
ク.あたい/ね
ケ.わす
コ.あわ
◇解説
(九)
出題文全体を出来る限り平易な文章で訳してみました。
意訳している部分が多いですが、ところどころ敢えて文章の構造を残して訳しています。
私も完全に理解しているわけではありませんので、解釈の誤りがあればご教示いただければ幸いです。
文章A
「寛政の三奇人」の一人として知られる「林子平」の逸話からです。
林子平歴遊して還り家に在り。会(たまたま)兄の嘉膳、妻を喪うて未だ1.ヒン(答:殯)せず、明朝を以て葬らんとす。
(訳)林子平は旅から帰って家に戻った。ちょうど兄の嘉膳が妻を亡くしたところで、遺体はまだ棺に移しておらず、明朝に葬る予定であった。
葬式の前に行われる「ヒン」ということで「殯(かりもがり)」が思いついたでしょうか…?
「棺に納められていない」という状況は以下の話にも繋がってきます。
挙家ア.匆忙(答:そうぼう)。時正に窮冬、寒気肌をイ.透(答:とお)す。
(訳)家中が慌ただしい状況。その時はちょうど冬の終わりで、寒気は肌を通すほどだった。
午夜のウ.比(答:ころ)、衆皆寝に就かんとす。而して子平在らず。衆之をエ.索(答:もと)むれども得ず。
(訳)夜の12時頃、皆寝に行こうとしていた。そこで子平がいないことに気づいた。皆で捜すが見つからない。
偶嫂氏死体の臥床中に2.カンセイ(答:鼾声)あり。嘉膳怪しみて衾をオ.披(答:ひら)けば、子平中に在り。嘉膳驚き且つ怒りて大いに之を𠮟す。
(訳)ふと兄嫁の亡骸を寝かせた寝床の中から鼾が聞こえる。嘉膳が怪しんで布団をめくると、子平が中にいた。嘉膳は驚き、怒りをもって大いに𠮟った。
「臥床」と直前にあるので「鼾声」は分かりやすそうですね。
子平徐(ゆる)やかに起ちて曰く、寒威堪えず、少しく嫂氏の衾を借るのみ。嫂氏既に死せり、俱に臥すも何の嫌あらん。兄猶何ぞ嫉妬するをカ.須(答:もち)いんやと。
(訳)子平はゆっくりと起きて言った、「厳しい寒さに我慢できず、少し兄嫁の布団を借りただけだ。兄嫁は既に亡くなっているのだ、一緒に寝て何が嫌なのか。兄が今更嫉妬するようなことでもあるまい」と。
嗚呼、奇謔。一歩誤れば則ち悪謔と為る。是子平にして可なり。他人の決して為すを許さざる者なり。
(訳)ああ、なんと突飛なおふざけだろうか。一歩間違えれば悪ふざけとなるだろう。これは子平だから許されることである。他の人が行うことは決して許されないことである。
…凄いエピソードですね…^^;
文章B
「太平記」からの出題で、後醍醐天皇のお話です。
かなり難解なものなので、幾つかの文献を渉猟して情報を集めました。
夫、四境七道の関所は、国の大禁を知らしめ、時の非常を誡めんが為なり。
(訳)そもそも都の四方や七道にある関所は、国の重い禁制を知らせたり、その時々の非常事態に警戒するためのものである。
「七道」は東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道の7つ。
「国の大禁」の部分は、「孟子」に「臣始めて境に至り、国の大禁を問うて、然る後敢えて入る」という一節があり、これを意識したものとのことです。
ちなみに、諺の「境に入りては禁を問う」は出典が異なりますが、もしかしたら何らかの関連があるのかもしれません。
然るに、今3.ロウダン(答:壟断)の利に依って、4.ショウコ(答:商賈/商估)往来の弊、年貢運送の煩ありとて、大津、葛葉の外は、悉く所々の新関を止めらる。
(訳)ところが、今は通行税が取られるために、商人の行き来や年貢の運送に弊害や煩わしさがあるとして、後醍醐天皇は大津、葛葉以外の全ての関所を廃止された。
「壟断の利」は故事に見られるように、都合の良い場所を見つけて利益を独占することですが、ここでは新たな関所を勝手に設けて通行税を取ることを指しているようです。
ちなみに、「葛葉」は「摂津の国」とあるので、今の「樟葉」のことですかね…?
「ロウダン」は解釈はややこしいですが、1級学習者なら音だけで思い浮かぶ語だと思うので、多くの方が正解できたのではないでしょうか。
「ショウコ」は同音異義語が多いですが、「関所を往来する」ことからある程度は絞れると思います。
また元亨元年の夏、大旱地を枯らして、5.デンプク(答:甸服)の外百里の間、空しく赤土のみ有って、青苗なし。
(訳)また元亨元年の夏は、大旱魃で地面は干上がり、畿内から外の百里に亘って、ただ不毛の地が広がり、青々とした田はどこにも無かった。
「デンプク」が場所を表す語であることは分かると思いますが、音だけで判断された方が多いかもしれませんね。
キ.餓殍(答:がひょう)野に満ちて、飢人地に倒る。この年銭三百を以て、粟一斗を買う。
(訳)餓死者が野に溢れ、飢えた人が次々と倒れていた。この年は、三百の銭で一斗の粟しか買うことができなかった。
「餓殍」は原文では「餓莩」でしたが、他に読み問題の適切な個所が無かったため、同義の配当漢字に変えて出題しました。
ちなみに、四字熟語「斗粟尺布」の説明にもあると思いますが、「一斗の粟」は僅かな量です。
君遥かに天下の飢饉を聞き召して、朕不徳あらば、天予一人を罪すべし。黎民何の咎ありてか、この災いに遭えると、自ら帝徳の天に背ける事を歎き思し召して、6.アサガレイ(答:朝餉)の供御を止められて、飢人窮民の施行に引かれけるこそ有り難けれ。
(訳)後醍醐天皇は間接的に世の飢饉をお聞きになって、「私に徳が無いのであれば、天は私一人を罰せよ。庶民に何の罪があって、このような災いに遭わなければならないのか。」と、自身の徳が天に背いていることを嘆かれて、自ら朝のお食事を止められ、飢餓で苦しむ民に施しをされた。またとないような尊いことである。
「朝餉」は本試験の読み問題で出ましたね。
「あさげ」と同じなので、読みは難しいですが、書きに関しては逆に思い出しやすいかもしれません。
これも猶万民の飢えを助くべきに非ずとて、検非違使の別当に仰せて、当時富祐の輩が、利倍の為に蓄え積める米穀を点検して、二条の町に仮屋を建てられ、検使自ら断って、ク.直(答:あたい/ね)を定めて売らせらる。
(訳)これでもなお多くの民の飢えを収めることができないと、検非違使庁の長官に命じて、当時の裕福な者たちが儲けるために蓄えている米や穀物を調べ、二条の町に仮の小屋を建てて、検非違使自ら値段を定めて販売させた。
「検非違使」は、今で言うと警察・検察・裁判所などに当たるでしょうか…?
「直」は読みが複数あるので前後を見なければ判断できませんね。
直後の「定めて売る」から分かるかと思います。
されば、商買共に利を得て、人皆九年の蓄えあるが如し。
(訳)すると、売る人も買う人も相互に利益を得て、国が豊かになった。
「九年之蓄」は「国が豊かなこと」という意の四字熟語です。
訴訟の人7.シュッタイ(答:出来)の時、もし下情上に達せざる事もあらんとて、記録所へ出御成って、直に訴えを聞こし召し明らめ、理非を決断せられしかが、虞芮(ぐぜい)の訴え忽ちに停まって、刑鞭も朽ちはて、8.カンコ(答:諫鼓)も打つ人なかりけり。
(訳)訴訟する人が現れたとき、もしかしたら庶民の実情が自身に届かないこともあるかもしれないといって、記録所(朝廷の訴訟機関)へお出になって、直接訴えをお聞きになり、是非を判断されたが、利己的な訴訟は忽ち無くなり、世の中がよく治まった。
「虞芮の訴え」は「互いに自己の利益を主張して訴えること、また、自己の非を悟り訴えを取り下げることのたとえ」です。
この故事は「田を巡り争っていた虞と芮の二国が、(名君としても知られる)文王の治める周の国の人の譲り合いの精神を見て、互いに対する訴えを取り下げた」というものです。
「刑鞭」は「刑鞭蒲朽」の故事、「諫鼓」は「諫鼓苔生す」などの故事を用いた表現です。
いずれも「世の中がよく治まるたとえ」で、これらも元の故事では名君や有能な官僚による政治が基になっています。
「出来」は、音に特徴があるので知っていれば簡単ですが、推測は不可能だと思います(笑)
誠に理世安民の政、若し機巧に付いてこれを見れば、9.メイセイ(答:命世/[名世])亜聖の才とも称しつべし。
(訳)世を治め民を安んずるという、誠に「理世安民」の政治であり、もし才知を巡らすことに関して見れば、聖人に次ぐ程の名高き才であると称賛すべきである。
「理世安民」は調べても「三好長慶」ばかり出てきて、出典などはよく分からず…^^;
「命世」は「命世之才」の形で四字熟語辞典に載っています。
惟恨むらくは、斉桓覇を行い、楚人弓をケ.遺(答:わす)れしに、叡慮少しき似たる事を。
(訳)ただ残念なことは、斉の桓公が覇道を行い王道を行わなかったことや、楚の共王の「楚人弓を遺る」の故事と、後醍醐天皇のお考えが少し似ているところである。
「覇道」は武力や権謀による統治で、「王道」は君主の徳による統治ですね。
「楚人弓を遺る」の故事とは、楚の共王が弓を失くした時に「楚の人が弓を忘れ、楚の人が拾って手に入れるだけのこと」と器の大きさを見せようとしたが、孔子に「『楚の人』に限る必要はなく単に『人』というべきだ」と逆に器の小ささを指摘された、というものです。
これ則ち草創は一天をコ.幷(答:あわ)すと雖も、10.シュブン(答:守文)は三載を越えざる所以なり。
(訳)このことが、武を以て新たに天下を統一することができたものの、文を以て統治することが三年続かなかったことの理由である。
「創業は易く守成は難し」という諺に似ていると感じられた方もいらっしゃったと思いますが、この出典は「貞観政要」の「帝王の業、草創と守成と孰れか難き」で知られる一節です。
それを引用した文などで、「草創」が「創業」になっているものや、「守成」が「守文」になっているものがあり、それらによって今回の文章のように「草創」と「守文」が対として使われることがあるようです。
ちなみに、後醍醐天皇の建武の新政はおよそ2年半で終わりを告げました。
長くなりましたが、以上で全問の解答・解説が終了しました。
最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
難しい内容だったと思いますが、少しでも楽しんでいただけたとしたら幸いです😊
なお、解答のPDFは本日昼頃に公開予定です。
特別なお知らせはいたしませんので、昼以降に元の「公開記事」をチェックしていただければと思います。
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